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フレデリッケ・マリア・クバンはノルウェー婦人選挙権運動連盟ほか数々の婦人連盟のリーダーを務め、婦人参政権のために中心となって大活躍した人物の一人である。また1905年のノルウェー・スウェーデン連盟終結の際に中心となって、ノルウェー全国の女性署名運動のために大活躍をした人である。ノルウェーが世界の中でもこれほど早く女性参政権を得たのも、この署名運動が大きな意味を持っている。
フレデリッケが生まれたのは、ノルウェー中部にあるノルウェー第三の都市、トロンハイム、1843年5月31日に地元の大富豪である、ダービ・アンドレアス・グラムの娘として生まれた。フレデリッケの両親は、女の子にも単なる家事にとどまらずきちんと教育を受けさせることをモットーとしていたおかげで、フレデリッケ始め子どもたちは全て優秀な家庭教師に教わることになる。当時フレデリッケの家庭教師だったオーレ・アントン・クバンは後にフレデリッケの夫となり、1904年の夏に亡くなるまで彼女を支えた重要な人物となる。
彼女の家族に付いてだが、政治や社会についてのディスカッションが常時となっていた家庭であった。常連客と言えば、作家、哲学者、音楽家などのビヨルンスチャルネ・ビヨルンソン、オーレ・ブル、オスムン・オーラブソン、ペーテル・クリステン・アスビヨルンセンなど、政治や社会に影響を与えた人物が多かった。
さて先述のオーレ・アントン・クバンは、彼はノルウェー最初の政党である自由党の党首であり、法律家でもあった。 1865年フレデリッケとオーレは結婚し、中央ノルウェーの都市、トロンハイムのすぐ北東のスタインチェにあったヤブラン農場を一緒に購入する。翌年から1879年の間に5人の子どもに恵まれるが、クリスチャニアとストックホルムを往復しながら政治活動に多忙だったオーレのために、フレデリッケは家事育児を始め農場の管理も全てまかされることになってしまう。その間2人は週に三通ほど手紙を交換していたと言う。手紙を通しフレデリッケは、どのようにオーレが政治家として進むべきかを熱心に勧めた。と同時に女性がいかに小さな存在か、夫のように堂々と公の場で政治活動をしたくても、それが女性であるために不可能であることを、身を以て思い知らされたのだった。
フレデリッケの苦悩は性差別だけの苦しみにとどまらなかった。2人の間に生まれた5人の子どものうち2人は幼くして亡くなり、十数年後に別の2人も亡くなってしまう。4人の子どもを失った悲しい経験から、フレデリッケは後ノルウェー婦人衛生連盟を立ち上げ、他の女性が同じ体験をしないようにとの願いからだったのは言うまでもない。
1881年よりフレデリッケ家族は一時的に今のオスロにあたるクリスチャニアに住むようになる。既に政治家として活躍していたオーレのおかげで、ここで始めて彼女に道が開けるようになるのだった。首都クリスチャニアではフェミニストの活動が盛んで、彼女もたちまちその中に入って行った。そしてついに1884年にノルウェーフェミニスト連盟、1896年には先述のノルウェー婦人衛生連盟のリーダーになり、また1898年に全国婦人参政権連盟、1904年にはノルウェー婦人国民評議会のリーダーに選ばれたのだった。
フレデリッケの活動は数々の連盟のリーダーになるだけにとどまらなかった。フレデリッケは頻繁に国会議事堂に赴き、男性国会議員たちに婦人参政権について説得を試みた。また議員夫人たちにも自分の夫に婦人参政権に賛同するように働きかけるようにしたのだ。このような熱心なロビー活動のために、彼女は『ロビイストの女王』という名を付けられた。
そして1905年の6月7日には、いわゆる『国民投票』でスウェーデンとの連合解消の議決されたのだが、全国民の半分にすぎない男性のみの投票が行われたのを機に、フレデリッケ率いる全国婦人参政権連盟は、婦人署名運動をトロンハイムで開始。瞬く間に署名運動は全国に広まった。『国民投票』における投票数は368,208に対し、婦人投票数はそれより一万だけ少ない278,298から279,878(正確な数値は不明)であった。
署名運動に協力したのは女性にとどまらなかった。活動家の夫たちを始め、警察官や様々な男性政治家、牧師、新聞社など、全国で男女ともに署名運動のために大規模な活動が行われた。署名はわずか二週間ほどで280,000ほどの署名が、それも男性票を一万も超えて集まったのである。男性ばかりの国会が、婦人参政権を拒否するわけにはいかないと思ったのも当然の成り行きだった。かくして1913年6月11日、男性参政権から100年後、ついに婦人参政権が議決されたのだった。一つ非常に残念なのは、フレデリッケの夫のオーレは既にこの世の人では亡くなっていた。彼は1902年からストックホルムにおけるノルウェー首相として就任していたが、1903年には健康不全のために首相の座を降り、スウェーデンとの連合解消の議決のほぼ11か月前に、フレデリッケと一緒に購入したヤブラン農場で一生を終えていたのだ。
婦人参政権が議決されてからも、フレデリッケは女性の権利についての活動を続けた。そして1911年にはホーコン7世から金メダルを授与され、1915年には聖オーラブ、ナイト賞を授与された。いずれも国や社会に貢献した人に送られる、大変名誉ある賞であった。
ノルウェー婦人衛生連盟のリーダーとしてフレデリッケは1933年まで活動を続け、その5年後ヤブラン農場で95年の生涯を閉じた。彼女の意思を持ち続け、ノルウェー婦人衛生連盟は2016年の現在も女性のために活動が続けられている。
参考文献
- Adresseavisen, Kronikk (02.mars 2013), Frederikke – en av de fire store! http://www.adressa.no/meninger/kronikker/article7164369.ece
- Danielsen, Larsen og Owesen (2013), Norsk likestillingshistorie 1814-2013
- Digitalt Museum, Frederikke Maria Qvam: http://digitaltmuseum.no/011085443166
- Haagensen, Trine Krigsvoll og Lønnå, Elisabeth (12.06.2015) Store Norske Leksikon, Frederikke Qvam: https://snl.no/Fredrikke_Qvam
- Lønna, Elisabeth (19.06.2015), Kvinnenes underskriftskampanje i 1905, Store norske leksikon, https://snl.no/Kvinnenes_underskriftskampanje_i_1905
- Norske Kvinners Sanitetsforening, Frederikke Maria Qvam: https://www.sanitetskvinnene.no/sanitetskvinnene/om_oss/historie/fredrikke_marie_qvam/
- Skaarer, Åse Camille og Kåss, Ingrid Wreden (), Frederikke Maria Qvam (1843-1938), Kilden http://www.stemmerett.no/tema/personene/fredrikkem_qvam.html
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