ノルウェー男女平等のパイオニア
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カミラ・コレットは、女性普通選挙権が議決されたちょうど100年前の、1813年1月13日に生まれました。執筆を通し、ノルウェー女性の中で一番初めに女性解放を唱えた人です。父親は牧師であり、1814年の憲 法制定の役人でもあった父ニコライ・ヴェルゲランドと、スコットランドの血を引く母アレッテ・サウローの間に生まれました。1979年発行の100クローネ札には、カミラの肖像画が載っていました。 政治運動こそしませんでしたが、彼女の小説「知事の娘たち」は時代の節目になっています。ノルウェー女性として、どのように女性解放に貢献したのでしょうか。
カミラの父は、当時としては非常に珍しく娘にも教育を受けさせることをモットーとし、当時14歳だったカミラは、デンマークのミッション系の学校に入学しました。同じ頃、姉のアウグスタは愛してもいない人と結婚させられ、このことがカミラの残りの生涯に大きな影を落 とすことになります。
二年後クリチャニアに戻ったカミラは、そこで詩人のヨハン・セバスチャン・ヴェルハーヴェンに出会います。しばらく するとクリスチャニアでは、二人が結婚するかもしれないとの噂が立ちましたが、ヴェルハーヴェンとカミラの父とは馬が合わず、二人は結婚にはいたりませんでした。 でもこの出来事は、恋愛の集結という単純なことでは終わらなかったのです。男性であるヴェルハーベンにとっては、女性とのゴシップなどたいした問題ではなかったが、 女性であるカミラにとっては、男性問題は後々問題になりやすく、結婚障害にも発展しかねないことだったのです。
心の傷を癒すためにカミラはパリ、そしてハ ンブルグへ渡りました。そこで詩人のテオドール・ムントを始め数々のドイツ詩人やジョルジュ・サンドと出会い、その間少しずつ執筆を始めたのです。その間出会ったの が後に夫となるヨーナス・コレットでした。始めの頃は二人で共同の執筆活動をしていましたが、徐々にカミラは独自の執筆をするようになっていきました。ただ当時は 女性が執筆活動をすることに強い風当たりがあったために、カミラは無記名で出版しなくてはなりませんでした。
カミラはヨーナスとの間に4人の息 子ができましたが、長男が9歳で末の子どもが3歳だったときに、ヨーナスが結核で死亡してしまいました。親戚たちが経済的な援助を申し出てくれたのにも関わらず、カミラは心か たくなに拒否しました。シングルマザーとなった女性が経済的援助を受けることが、どういうことか良く分かっていたからです。未亡人になったカミラは ヨーナスと一緒に暮らした家を手放し、 国からのわずかな手当を頼りに、息子4人とほそぼそと生活して行かなければなりませんでした。 その前後には、愛する兄のヘンリックが他界し、その3年後に父が亡くなり、心のよりどころであった親友のエミリエ・ディリクスも、 とうに過去の人となっていたのでした。
でもカミラは不幸にも負けず、息子のロバートとエミールを親戚に預け、執筆活動のためにコペンハーゲンにおもむき、翌年の1853年にクリスチャニアに戻ってきました。そしてついに1854年と55年にカミラは「知事の娘たち」を無記名で出版したのです。簡単なあらすじは次の通りです。
主人公であり、4人姉妹の末っ子のソフィーは、姉たちが愛してもいない男性と結婚し、幸せにはなれなかったのを見て、自分は親に決められた結婚なぞ決してす まいと思っていた。「女性は幸せになるのではなく、結婚するように定められているのだ。」とソフィーは結論を出したが、家庭教師のコルが彼女の心をとらえ た。だがこの恋も結局幸せにはなれず、後にソフィーは自分の父親のような年齢のライン牧師と結婚してしまう。
この本が出版された時には、国中から大反響がありました。女性の立場をあまりにも悲観的、否定的に記述していると批判されました。当時女性は『知的に劣る』と解釈されていたのですが、そんな女性がこっそりと、なんの躊躇もなく女性の権利を公に訴えたのです。カミラが著書を通して訴えたのは、結婚は両者の人権と価値を敬い、一方のみの感情ではなく、愛し合った男女で成立させるべきだと主張しました。また女性も男性と同じく自己決断をするべきだし、また若い女性も結婚する前に、自分の感情や自分自身のことについて考慮するということを、学ぶべきであると。彼女の主張は、当時の男性にとって全く想像不可能であり、受け入れがたいものだったそうです。無名で出版したにも関わらず、多くの人は彼女が出版したことに気づいていた。
カミラは「知事の娘たち」で、 女性とは受け身で弱々しく、美しすぎてもいけないし、また優秀すぎてもいけないのだということを描いています。一方男性は強くて積極的、また知的で優秀だと されていました。まさにフランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーの理想とする男女像が描かれています。 19世紀にはルソーの『ふさわしい』という言葉が、大きな意味を持っていました。ふさわしいとは言うまでもなく、男性にふさわしいという意味であり、女性とし ての身分をわきまえて、欲を抑え従順でいるということです。面白いことにルソーの「エミール」に登場する、エミールの妻となる女性もソフィーというのだが、偶然でしょうか。
その後カミラは「長い夜(1862年)」「流れに逆らって(1879&85年)」など数々の書籍を出版。当時のノルウェーは、ナポレオン戦争後にスウェーデン皇太子のカール・ヨハンがスウェーデン・ノルウェー国王として君臨していましたが、1844年に死亡して皇太子のオスカー一世が次期国王になりました。その間ノルウェー社会では少しずつノルウェー国家としての独立を叫ぶ声が聞こえるようになってきました。グリークやムンクなどのノルウェーの有名な芸術家が、この時代に集中しているのも、偶然ではなくこのためです。社会が政治的に変化して行くということは、女性の立場も変化して行くのですが、変化が始まっていたのは、カミラが住んでいたクリスチャニアから遠く離れた所でした。例えばフランスではすでに具体的な提案がされていました。例えば詩人で劇作家だったオランプ・ド・グージュは「女性の権利宣言」を発表しました。
カミラはノルウェー女性解放の先駆者として、政治活動の代わりに文筆活動を通して戦いに挑みました。女性の心や感情の解放を訴え、社会や子育て、それに加え不十分な教育が、却って彼女自身を女性解放の道に歩ませたのです。政治の改革も必要ですが、精 神的な面と両面を同時に解放することが、最重要であるとカミラは主張しました。
参考資料
- Aasen, Elisabeth (2013), 1800-tallets kvinner, På vei til stemmerett, Oslo, Pax forlag AS
- Collett, Camilla (2006), Amtmandens Døttre, Bergen, Vigmostad&Bjørke AS (Copyright 2006 by Vigmostad&Bjørke AS fra originalen i 1854&55)
- Danielsen, Hilde; Larsen, Eirinn & Owesen, Ingebørg W. (2013), Norsk likestillingshistorie 1814-2013, Oslo, Fagbokforlaget
- Rousseau, Jean-Jacques (1762), Emile, vol.3 (Omsetjing av Konno, Kazuo (1999), Tokyo, Iwanami shoten)
- Ørjasæter, Kristin. (2011, 23. november). Camilla Collett. I Norsk biografisk leksikon. Hentet 5. november 2015 fra https://nbl.snl.no/Camilla_Collett.
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