シングルマザーや婚外子のために〜カッティー・アンケー・モッラー

Katti Anker Møller

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カッティー・アンケー・モッラーは、ノルウェー福祉国家のために尽くした偉大な人物の一人と言えるだろう。特に功績を残したことは母親と子どもの権利に関する分野である。カッティーは1868年にノルウェーはハーマルという首都オスロの少し北に位置する町で生まれた。父であるヘルマン・アンケーはノルウェー最初の民族学校 (1) の創立者であった。一方母親のミックス・アンケーは10回もの出産の後、50歳で亡くなっている。ミックスの生涯は常時妊娠の恐れに悩まされていた。さらに小間使いの未婚での妊娠など、それらをずっと傍観していたカッティーは、性教育と避妊の重要性を認識するようになり、これが後の人生に大きな影響を与えたことは言うまでもない。

ハーマルでの教育を終えた後、フランスに半年間留学したカッティーは、そこでも様々な女性たちの不必要な妊娠における苦しみや、風俗嬢への差別などを目の当たりにするようになる。その後ノルウェーに戻り、現在の首都オスロに当たるクリスチャニアで教師の免許を取り、20歳になったカッティーは、いとこであり大農場の農場主、カイ・モッラーと結婚。そこでも再び女性たちの妊娠による苦しみを見ることになる。

1900年に農場が全焼し、復旧と同時にカイは自由党の党員として、国会議員に当選する。家族は一時的に首都に移住し、ここで30年近く温めてきた女性問題におけるカッティーの政治活動が開始されることになる。

クリスチャニアでカッティーは『白い綱』という女性団体と主に、1901年から未婚の母とその子どもたちのための家のための募金活動を始めた。当時未婚の母は、周囲から不道徳な女性というレッテルを貼られていて、子どもの父親からも拒絶されたり、自分の家族とも絶縁関係にあることが多く、そのために経済的にも非常に困難な状況にあった。また当時の社会では依然として男女ともに保守派が圧倒的で、カッティーの『家』の計画も多くの非難を受けたが、賛同してくれる人も中にはいた。おかげでよく年には未婚の母と子どもの家が設立し、5年後には二番目の家が建てられた。そこでは出産や産褥に加えて、中絶や養子縁組みに関する助けなどを受けることができた。カッティーの働きが功を奏したためか、反対派は少しずつ収まっていった。

『家』の運営はボランティアに依存していたが、ボランティアだけでは不十分としたカッティーは、義理の兄であり、当時のグンナー・クヌツセン首相率いる政府での社会貿易大臣であった、ヨハン・カストベルグと共に、後に『カストベルグ子ども法』となる(1915年成立)法案の取り組みを始める。この法律は、婚外子が婚内子と同じように父親の姓を名乗ったり、財産相続に関する権利などを含む内容で、当時としては非常に急進的であったため、国中から猛烈な反対論が出たのは想像に難くないだろう。法案に賛成だったのは自由党の急進派と労働党で、残りの自由党や保守党、それに当時保守党と協賛していた自由党リベラル派は反対の立場を取っていた。

カストベルグ子ども法が成立した同じ年に、カッティーは母親たるものの自由についてのレクチャーを開催した。この中でカッティーは中絶は犯罪ではなく、罰則を与えるという法律を改正すべきということと、避妊を始め産褥、母親なるものについての教育をすべきだと主張した。中絶は犯罪とすべきでないという主張には激しい反対に会い、この件に関しては保留となった。

それ以外の件においては一応続けることができたが、それでもかなりの困難を伴った。避妊に関しては中流階級の女性の支持を受けることができず、『自然な方法』、つまり性行為をしないということだった。一方労働党の女性党員たちは、逆に非常な興味を示したという。

1916年には若い女性向けに性に関する知識の本を出版し、しばらくはノルウェーでの唯一の性教育の本だったという。カッティーの言動は論議を醸すものもあったが、ほとんどは社会に貢献するものだった。その多くは例えば母親と子どものためになることだった。家事を学ぶこととともに性教育も取り入れそれを義務化したり、看護師や助産師を育てる教育施設を設立したりした。また産褥のための展示会を開催して、訪れる母親たちが栄養や、衛生、出産そして育児についての知識を得るように働きかけた。

1924年にはオスロに母親のための衛生保健所が設立され、カッティーは最初の2年間所長をした。ここで女性たちは教育を受けたり、避妊具を購入または供給されたりした。また妊娠中の衛生や乳幼児の世話の仕方、栄養などの指導を受けたり、安価で子ども服などを購入できた。

たとえいくつかの件において猛反対されることがあったにしろ、カッティー・アンケー・モッラーがノルウェーの福祉国家を築いた重要な人物の一人であることは疑いがない。全国ノルウェー女性委員会によると、カッティーは革命家であり女性差別のために奮闘した幻の女性であるという。彼女の多くの幻は彼女の死後現実のものとなった。

カッティーは1945年8月20日フレデリックスタド市トルソでその76年の生涯を終えた。フレデリックスタド市の図書館の前には、生前カッティーがよく座っていたという石の上に彼女自身の彫像が座っている。これは彫刻家のビルテ・マリエ・ローバイド作で、1998年に建てられた。カッティーの出身地であるハーマーにも同じ彫刻家の彫像が2013年に建てられた。

(1) 民族学校 (Folkehøyskole) とは高卒の特に若者が自由な環境で、語学、音楽、写真、ダンス、ドラマなど、様々な分野にわたって学べる私立で寄宿制の学校である。町から離れた田舎にあるというのも特徴の一つである。

参考資料

  • Grønbech, Dagrunn (2016), fra vår historie: Kvinneforkjemperen Katti Anker Møller, http://kvinnesak.no/2016/10/fra-var-historie-kvinneforkjemperen-katti-anker-moller/
  • Kvinnemuseet, Katti Anker Møller, http://kvinnemuseet.no/Katti_Anker_Møller
  • Lønna, Elisabeth (2017), Katti Anker Møller, Store Norske Leksikon, https://nbl.snl.no/Katti_Anker_Møller
  • Mortensen, Gro-Anita (2007), Katti Anker Møller, Kildenett.no,  http://www.kildenett.no/portal/artikler/2007/katt.anker.moller