ノルウェーは1380年から1814年までの434年間、デンマークの支配下にあり、その後1905年まではスウェーデンとの政治的連合関係を結んでいた。ノルウェーとしたら、ナポレオン戦争で敗戦したデンマークから、ようやく解放されたと思ったのもつかの間、今度はスウェーデンと連合を組むことになり、さぞかしうんざりした気持ちだっただろう。それでも話し合いの結果、ノルウェーは独自の憲法を持つことを許され、スウェーデンとは共通の国王を持つことになった。オスロの中心街にあるカールヨハン通りは、 後にスウェーデン・ノルウェー国王となった当時のスウェーデン皇太子の名前にちなんだものだ。
それ以来、少しずつノルウェー独立を望む声があちこちで起こり、1884年に自由党が政権を掴むなり、連合解消を本格的に訴えるようになった。スウェーデンともなんども話し合いが持たれ、まず国会において1905年6月7日に議決された。ところがスウェーデン側はこれを承認せず、ノルウェー側だけの連合解消とされた。その後8月13日にノルウェー側で国民投票が行われた。(注1)『国民投票』と言っても、当時は男性のみ参政権があったため、国民の半数しか投票できなかった。一定以上の税金を支払っている一部の女性は、1901年より地方議会の参政権を持つことができたが、この8月13日には投票できなかった。
すでにフレデリッケ・マリエ・クバンについては「ロビイストの女王」として紹介してあるが、彼女は投票場に赴き無理矢理にでも投票を試みたのだが、虚しく拒否されてしまった。それならばと、ノルウェー婦人衛生連盟と全国婦人参政権の両方の会長を務めていた彼女は、トロンハイムの他の女性たちとともに全国の女性を総動員して、ノルウェー独立に関する女性の署名運動を展開したのだった。
女性たちは早速街頭での署名運動を展開した。ノルウェー全国の駅や教会、工場、商店などには署名簿が設置され、女性だけではなく牧師や市長、役人また警察官など、あらゆるところで署名運動を支援する男性たちがいた。新聞社も協力し、小さな町では戸別訪問も展開された。おかげで8月3〜4日にテレグラムを通して始まった署名運動は、二週間後の締め切り日の19日にはなんと280,000あまり(注2)の署名が集まった。インターネットもスマホもない時代にである。ノルウェー女性は、スウェーデンから独立して、ノルウェーが一国の独立国になることを自分たち女性たちも希望するという、強い意志をこの署名を通して明らかにしたのである。これが8年たった1913年の婦人普通参政権の議決に大きな影響を与えたことは、疑いの余地がないだろう。
スウェーデンがようやくノルウェー独立を承認したのは、それから二ヶ月経った10月26日であった。
(注1)当時の選挙は民主的とはほど遠かった。選挙場の前ではノルウェー国歌である「そうだ、我らノルウェーを愛す」というメロディーを吹奏楽団が一日中演奏していたり、選挙場ではノルウェーの国旗がいくつも掲げられていたという。その影響だろうか、ヤー(イエス)と投票したのは368.392票で、ナイ(ノー)はわずか184票だったという。
(注2)現在の細かく厳しい民主的選挙と違い、実は同じ書跡の署名がいくつも書かれていて、果たして信頼できる数字かどうか、疑わしい点は否めなかった。一部の専門家によれば、当時それほど多くの女性が読み書きできなかったために、代筆を余儀なくされたのかもしれないという意見もある。
参考資料
Børresen, Ingrid Johanne (2014), Hvorfor fikk vi egentlig ny Grunnlov i 1814?, https://www.serieliv.no/2014/05/20/grunnloven-blir-til/
Norge i union med Danmark, Eidsvoll 1814, http://eidsvoll1814.no/union-med-danmark
Orning, Hans Jacob (2017), Norges historie, https://snl.no/Norges_historie
Sejersted, Francis (2017), Unionoppløsningen i 1905, https://snl.no/Unionsoppløsningen_i_1905
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