映画は主人公のマウド・マッツが工場で働いている所から始まる。働いているのはほとんど女性ばかりで、どの顔も疲労に満ちている。マウドも同じように疲れた顔で仕事をしている所に、工場長がパッケージを持って近づき、これをある所に届けろと言われる。外に出た彼女が出くわしたのは、とんでもない出来事だった。何人かの女性たちが「女性に参政権を!」と叫んだかと思うと、いきなり小石を通りに面していた店の窓めがけて投げつけたのだ。ショックで届け物もおろか、そそくさと帰宅したマウドは、後にこの女性参政権運動家の仲間に加わり、二度も警察に逮捕させられるほどになる。夫に裏切られて愛する息子を奪われ、近所からは白い目で見られるようになっても、マウドはあきらめない。そしてある日同志仲間のエミリーが事故死し、彼女の死によってイギリス政府はようやく重い腰を上げることになる。
まず個人的な観点から言うと、権利のために戦うのは大賛成だが、非常に残念なことに暴力を使っていることには全く賛成できない。ペンシルバニア大学のサラ・スライガーも言っているように、もしイギリス女性が無暴力で権力に向かっていたら、もっと早い時期に参政権を得ていたかもしれない。映画の中で、マウドが大臣の家に火をつけたために逮捕されたとき、警官に「数秒の差で、メードが亡くなっていたかもしれない」と咎められたにもかかわらず、全く暴力を否定していない。またメアリー・ストリープ扮する、暴力を使ったことでも有名な女性参政権運動の活動家、エミリン・パンクハーストが映画の中でも、女性たちに暴力を使うことを堂々と推奨したりと、暴力での抵抗運動が映画の中に頻繁に出て来るのは、遺憾に耐えない。暴力のために、パンクハーストについて賛否両論があるのは、納得がいくことだろう。
一方ノルウェーでの女性参政権運動は、幸いなことに平和的かつ合理的であった。このことについては別の項で詳しく触れることにするが、無暴力で戦ったノルウェー女性が男女平等の普通参政権を得たのは、イギリスより15年も早い1913年というのは、全くの偶然と言えるだろうか。
とはいえ、この映画では当時のイギリス女性がいかに差別待遇をされていたか、非人間的な扱いを受けていたかが表現されている。例えばある日若い女性の一人が工場長から性的虐待を受けているシーンが映し出されていたが、くびにされるのを恐れてだろう、当の本人は何の抵抗もできず、見ている側は怒りが込み上げて来るようなシーンである。また、主人公のパートナーが運動に明け暮れたあげく、刑務所に入れられたマウドを追い出し、一人息子と会うことを禁止するようになるのだが、当時のイギリスの法律では父親が子どもの所有権を持つということを説明され、マウドは母親としてなす術が全くなく、愛する息子と引き裂かれてしまうことに耐えなければならなかった。
女性の権利のために戦うことは、日本であろうとヨーロッパであろうと同じである。違うのは、ヨーロッパの国々は国境を越えるのがいとも簡単にできるため、影響力に格段の差があるということだ。これは例えばノルウェーの平等意識の背後に、フランス革命の人権宣言や、アメリカの独立戦争における独立宣言の影響があることは明らかというのもうなづける話だ。一方日本といえば、羽田から隣国の韓国や中国まで飛行機で数時間かかってしまう。
日本で男女平等の普通参政権が議決されたのは、ずっと後の1945年のそれも12月である。地理的またその他の違いのために、ノルウェーや多くの先進諸国から遅れをとっているのは仕方がないが、それでも一歩一歩前進しているということは、少なからず肯定的に考えたいものだ。